テレキネシス

実は僕ね、どうも以前からね、念力が少し使えるみたいなんですヨ。 まぁ聞きなよ。聞け。読んでも可。 この前実験したんですケドね。驚かないで欲しいんですが、 ほんの軽い気持ちでね、念じたってゆうか、 それが曲がるようなイメージを頭の中で要求したんです。 そしたらね、なんもしないのに、ホントに曲がったんです。 指が。 いや。これはアホの言い分にしても。 冷静に考えてみると、思った通りに体の一部が動く事。 コレはなかなか不思議な事なのだなと、思ったりしたわけでした。 この事に思い至ったのは、自分と他者(あるいは、自分で無いもの)の 境界線について思っていた時だったんですが。 自分である部分から、急激に自分性が薄れる部分への境界は、 ほぼ、皮膚という膜に一致します。 だから、「自分」のイメージは主に、そこから内側の部分を指すわけです。 ココでひとつ、包丁かなんかで景気良く小指をざっくりやってみますと、 コロンと転がってるちょっと可愛らしげな小指たんは、なんかもう、 自分の一部っぽくないわけです。 ちょっと呼びかけてみたら「はぁい」とか答えてくれそうな感じです。 こやつ、「他者」というのは言い過ぎにしても、「もの」ぐらいの存在に 格下げされてしまうわけです。 なぜ小指は自分ではなくなったのか。 この回答として考えられた仮説が、 自分:思い通りになるもの。 で、冒頭の発想となったわけでした。 対義的に、他者は「思い通りにならないもの」と、考えられますが、 自分の体験に照らし合わせると、「動きが予測できないもの」という表現が、 よりヒットするように思われました。 そこで、自分の定義をもう少し曖昧にして、「自分性」というイメージで考えます。 最も自分性の強いものは、全く自分の思った通りに動かせるもの。 それに準じて、動きが予測できる(予測できれば、自分が間接的に ある程度動きを誘導することもできる)ものにも、自分性を見出せる、とします。 まぁ、コレをベースにして。 こぼれ落ちた小指のように、意志を持たないものは、 経験的な物理法則によって動きが予測でき、薄いながらも自分性があると考えます。 というかむしろ、 動作の法則を把握する事により、以前他者であったものが、 自分に近い存在になったと言うべきです。 小動物などは、それよりはやや他者性が強いですが、 ま、あまり頭の良くなさそうな生き物なんかは、動きの多様性なんぞ たかが知れてるとゆうところもあります。 自分以外の人間は、基本的には、かなり他者ですが、 人間は人間なだけに、考え方、行動も、似ている部分があり、 その動作法則をそこそこ把握する事が可能だと思われ、 うまくすれば、自分の手足のように動かせるわけです。 で、分かったつもりになって。ある時に、他人が全く予想外の 反応を示した時、そこに再び他者というものを感じるのかもしれません。 まぁ、このように。世界を「自分と他者」に徹底的に分類してしまうわけです。 分類するとどうなるか。 別に、どうもしないです。 どうもしないけど、結構キレイな分類かなと思ったもので。 この「自分性」は、ある個人が「感じる」もので、 「能力的に持っている」ものではありません。 んーつまり、分かったつもりになるのも、ならないのも、個人の自由で、 そこに自分性があるかどうかを見出すものであるということです。 一番言いたかったことは、 「ATフィールドって、ひょっとしてこういう発想に近いものなのかな」 と、思ったとゆうことです。 …つうか。タイトルが「テレキネシス」でいいのか?