書き初め

近いうちって? ここのページは、分類的には日記系なのですが。 ただ日記でなくて、ちょっと読み物を意識した、 読んでくれた方が、「あァ、読んだ読んだ」と、思うような、 そういうモノを自分は書きたかったのだろうと、 「記」に過去に書いた内容を想うにつれ、そのような感想を 抱くわけです。 いやあくまでも、「書きたかった」だけなの。 この間、真理とはなんだろう、とか考えていました。 「真理」そのもの、です。何をもって真とするか。 で、実は。 それをネタにココ用の文章を一本仕上げてたりしました。が …何となく時が過ぎて、ボツっぽくなりました。 時間を置いて読み返すと、なんか気が乗らなくなるのです。 いちお、概要だけ適当に抜粋し、載せてみます。 -------------------------------------------------------- ○「真理」という言葉から受ける、基本的な印象 揺るがない事実。 100パーで信頼を置いて良いもの。 非常に整合性の高い事。 究極的なもの。 ○真理の真理性を疑うの例 ある人が、ある事柄を真理だと思ったとします。 その真理Aは、世界の多くの事柄を上手く解釈する事ができました。 しかしその人は、真理Aが一部の事実を説明できない事に 気が付いていませんでした。 その後、そのわずかな矛盾をも解決できる、より優れた 真理Bが別の人から発表されました。 真理Aの人は持論の欠点を認め、真理Bが 正しいのだと思うようになりました。 という事は、真理Aは真理ではなかったのでしょうか。 真理Aを真理ではないとしてしまうと、相似的に 真理Bの方もその真理性が危ぶまれてしまうという事実があります。 ○それで? 「だから、真理になんて行きつくことはできないんだ」 と、言う人もいます。そうなのかもしれません。 けどな。 人はある種の「真理実感」みたいなものを持つ瞬間があります。 先の例で言えば、ある人が真理Aを見出した瞬間です。 この気持ちを嘘だと言って、何になるのか。 真理は得られない、この表現は正しくないとして、「擬似真理実感」 という言葉をあてがってみた所で、コレは人の感情を正直に 表してはいない、と私は思うわけです。 ○結論 人が何かに対し真理だと思ったとき、そこに真理はあるんだと。 その人がその真理に対し疑念を抱くまで、それは真理で ありつづける、真理としてふるまうのだと。 少なくとも、真理とはそういう性質のものではないだろうかと。 ○もっと結論 自分が正しいと思っていることが、一番正しい。 -------------------------------------------------------- この話題に派生して、「意味」とか「価値」の辺りまで ふみこんでいたりします。 さらにそれに追随して、 ん、ココのくだりは強く思ったことなので、ノーカットで。 -------------------------------------------------------- 仕方の無い事だけれど、人はどうも、自分を不利に負いこむような 論理展開はしないものだなと。 素直に真実を見つめたい、という思いは間違い無くあるのだけれど、 同時に、自己防衛的、正当化、自分が劣った側に回らないように、 そのための理由付けになるものを選んでしまう、そういう向きに 流れてしまう、面白くない傾向があります。 誰でもそうで。 自分が真剣に打ち込んでいる事に対して、それに大きな価値が ある事かのように思ってなきゃ、やってられない。 必ずしもネガティブな意味を込めている訳でなく、 ただ純粋に、そういうものかと、思います。 -------------------------------------------------------- 「つーかこんな虫食い的に掲載しないで、素直に全部載せれば?」 と、思われるかもしれません。 つーか、でもね。本当のトコロ、 こうゆうのを本気で考えてマスみたいなコトを嬉しそうに語るのは 格好悪すぎてやってられないんです自分的には。 でも、言いたくて仕方が無いって気持ちもあるんで、困ったもんです。 どうして格好悪いと思うのか、というと。 なんかさ、「クールっぽくふるまってます」みたいな。 「人生って虚しいよね?」みたいな。 「俺って頭イイでしょ」みたいな。 くわァーッ!! 、やだやだッ!! ヤなんだけど、また別の「そうゆう」話ですが、 私は、物事を優劣を付けずに見るようにしたいと思っています。 つまり、それを優れた見方だと思っていたわけです。 まぁ。その辺のツッコミはまた今度にして。 だから、よい事も悪い事もなく、 高い成績をあげる事も、えらい人間になる事も、意味無しと。 ごく客観的に見た場合はです。 そういう気持ちを、常に心のどこかにおいておこうと。 そうすれば、理不尽に他人を見下す事も無く、正しい モノの見方ができるのではないかと、そう思ったわけです。 重犯罪者であっても、生前から悪かった訳ではない、という風に。 最近、この見方に少し疑問を持つようになりました。 区別・差別をしない事を、何故それ程までに良しとするのか。 皆が良い、自分も良いと思っている事を、なぜ素直に受け入れないのか。 優劣を付けないという見方に凝り固まって、意味も無く 否定の気持ちを加えているのではないか。 社会的評価のあるものに対し、それをごく個人的に否定してみたトコロで、 それはなにか有意義なことにつながるのか。 あるいは逆に、流行りの風潮に適当に影響されただけ、それをただ 自分一人で行き着いたみたいに納得しているだけではないのか。 まあアレ。自分の心の非常に感情的な所、理屈っぽくないところでは、 適当にアレは良いだの悪いだの思っているのですが、 そこに理性が絡んでくると、非常にもう、最近は。 何を指針にして考えたものかさっぱり解らなくなってしまい、 自分がどの段階で葛藤しているのか、何をそんなに悩んでいるのか、 混沌としてきて、かなりどうでもいい感じです。 この辺りの事は、「考え遊び」みたいなトコもあって、これを 自分の身の回りの判断にも適用するとは限らないのですが、 やっぱまぁ、考え方ってのは自由にありたいものだなァと思うわけで。 自由であろうとすることに囚われるということも、あるんだろうな、と。 なんかもう、とりとめの無い話になってしまいましたが。 …もっと、楽しい事を書きたいなあ。 「TRICK 2」は楽しいなあ。 「半熟英雄」は楽しいなあ。 もう、オチなんだかなんなんだかさっぱりわからないよ。